2013年11月2日土曜日

この絶海の孤島にはアベノミクスも原発もないけど、ぼくたちが持たない本当の自由と幸福があった。



英国セント・キルダ島で知った
何も持たない生き方



井形慶子
ちくま文庫、2013



題名のとおり、「何も持たない生き方」で暮らす人びとを描いたものである。

「この世の果て」の人びとの暮らしぶり、生き方は、ぼくたちの生活のすべてを根底から問わずにはおられないだろう。

イギリス北部に浮かぶ絶海の孤島の小さなコミュニティ。

セント・キルダ島。

この島は「大西洋に浮かぶ最果てのイギリス」とよばれるが、その形容にふさわしく、荒くうねる波と絶壁の断崖に阻まれ、イギリス本土とこの島を結ぶ定期航路はなく、交通手段もごく限られている。

イギリス本土という文明と隔絶された場所であることによって、文明の恩恵ではなく、文明の害悪から逃れられた、世界でも稀な聖域となった。

この島の住人たちは、朝めざめるとみんなが集まって、きょう何をするのかを決める。

島は食糧資源にとぼしく、カツオドリとフルマカモメが貴重な食糧源であり、それが島民の主食だった。そして、その捕獲された海鳥は、すべての島民に分け隔てられることなく平等に支給された。

もし、カール・マルクスがこのコミュニティを見たら、こここそが「原始共産制」と喝采しただろう。「彼らには賃金を得るために働くという意味がはっきり分かっていなかった」というのだから。

この島民たちの在り方は、アベノミクスに代表される、この国の時流とは対極だ。

ぼくたち人間は、別に「成長戦略」で無理やり経済をかさ上げしなくても、人びとと過剰な競争をしなくても、そして何も持たない生き方であっても、少なくても現在の日本人より「幸福」に生きられるコミュニティの在り方がある、ということを本書は教えてくれる。

この島を訪れた作家は島民の暮らしぶりについて、こう記している。

「軍隊、金、法律、医学、政治、税を持たない社会が今やこの世のどこにあるか。この島で政府とは島民たちのことで、彼らは自分たちの頭で考え、行動して、小さな社会を作っている。これは驚異だ」

また、学者の感想はこうだ。

「セント・キルダの住民たちは、世界の大部分の人たちよりかなり幸せである。いや、本当の自由な暮らしを送れる世界でも唯一の人々ではないか」

そして、この島は「全ての魂がもどっていく」とよばれる。

そういえば、ぼくたちには「ニライカナイ」というものがあったことを思い出した。

沖縄や奄美群島には、魂はニライカナイより来て、死者の魂はニライカナイに還る、というあの伝承だ……。



その名はロドリゲス。全米で売れず、突然南アで爆発的ヒットしたシンガー。自ら衝撃的な死を選んだとされたのだが……。観る者のハートを心地よく洗ってくれる最高のドキュメンタリーだ

 
 
シュガーマン 奇跡に愛された男
DVD、ブルーレイ

 
 


出演ロドリゲス、監督マリク・ベンジェルール

 

1960年末、アメリカ・デトロイト。

紫煙にくすぶる酒場。

その隅から聴こえてきた男の歌声と歌詞は、人のこころをとらえ、たましいをゆさぶった。

それは“天才”とも称された。

そんな男のうわさを聴きつけた音楽プロデューサーが場末の酒場を訪れた。

そして、そのうわさがガセでなかったことを知る。

ただちにレコーディング契約され、全米で2枚、この男のアルバムが発売された。

男の名はロドリゲス。

世間では無名だったが、音楽のプロのあいだではボブ・ディランと比肩されたほど、高い音楽性を誇った。

だが、リリースされたものの、これが売れない。

プロデューサーは売れると確信したのだが、なぜかアメリカ人はまったく、この男の音楽に聴く耳を持たなかった。

そして男は70年代に、とつぜん姿を消す。

しかし、それから数年たった南アフリカで、ロドリゲスの音楽がこの地を席巻する。

その圧倒的人気は、プレスリー、ストーンズ、ビートルズでさえ凌駕するものであった。

しかも、歌っている本人が知らないまま。

90年代になると男は、南アで悲劇的な伝説の人物として語られるようになる。

「ステージで頭を打ち抜いて死んだ」とか「ステージで焼身自殺した」、あるいは「獄中でヤク中で亡くなった」とか。

だけど……。

これ以上は書かないほうがいい。あとは観てのお楽しみだ。

あるシンガーをめぐるドキュメンタリー。

ひとつの映画作品として、あと味のいい爽快感に包まれる秀作だ。

全米で、映画ではヒットした。また世界の多くの映画祭で受賞している。

2013年10月10日木曜日

これ突出した青春だけど、でも少年がみんな普遍的にもっているアホなところ、かもしれない。この絶妙の「アホ」がたまらん


岸和田少年愚連隊




中場利一
集英社(文庫)2010




ぼくは大阪の東部地域、その名も東大阪(旧布施)市出身である。

むかしの河内の国だ。その同じ河内に岸和田がある。岸和田は和泉の国という指摘もあるかもしれないが、和泉になるまえは河内だった。

この本の舞台は、その岸和田(大阪南部)である。

そうあの元プロ野球一のいかつい男、清原和博が生まれ育ち、だんじり祭で全国に名をはせる町である。あの清原でさえ影が薄くなる、彼を3倍はヤンチャにしたガキ、破天荒なオッサン、オバハンが、このノンフィクション(実話?)の登場人物だ。

まあ、この本に出てくる町で育ったら、「そら、みんなキヨになってもしゃあない」と首肯してしまう土地柄である。

ぼくが生まれ育った河内永和(近鉄奈良線の駅名)の近辺も、ガラがええとはいわんけど、岸和田のそれとは次元がちゃう。後者のそれは、もうほぼ治外法権、無法地帯だ。

で、この本は、鉄板を忍ばせた学生カバンを武器に、これ死ぬんちゃう、という半端じゃないケンカを繰り返す、凄惨そのものの中学生の日常を描いたものだ。

だけど、これ、ムゴイのはたしかだけど、なぜかそういう印象が残らない。過激な暴力描写がたっぷりなんだけど、すこーんと抜けた清々しい読後感がある。

この感じ、ヒトという動物が先験的に有している普遍的なサガとでもいうのか、そういうものを余すところなく発露してしまう潔さかもしれない。

自分のそういう衝動に素直というか、まあ単純にアホなんやけど、そのアホさがええ感じで描写されている。こんな無茶な少年が、おとなになって、こんな達者な文を書く、という驚きもある。

ぼくは大阪の私立の坊っちゃん学校で、チュンバー(主人公)の工業高とは同じ男子高とはいえ、その生徒のキャラがまるでちがう。

だけど学校をさぼり、パチンコに明け暮れ、競馬、競艇に通った共通項がある。また70年代初期と中期というずれはあるけど、ほぼ同じ時代の空気を吸っていたわけだ。もちろん、ぼくは主人公のようなケンカはしなかったし、できなかったけど。

高三の初めかな、ぼくはこの本に出てくる岸和田の春木競馬や住之江競艇に、学生服とカバン姿で行ったことがある(なぜかぼくは、ほとんど補導されなかった)けど、よくぞチュンバーのような連中に見つからなかったもんだと、本書を読みながら胸をなでおろした。

遠いむかしのことだけど、こいつらにからまれていたらと想うと、いまでもぞっとする。

でも、こんなオモロイ本、メッタにありまへんよ。

2013年10月6日日曜日

なぜ学校で憲法を学ぶ授業がないのか。この本でその謎が解けた。公教育の必修科目に「憲法」があると、すこしはこの国がよくなるかもしれない。



憲法は、政府に対する命令である。





ダグラス・ラミス
平凡社、2006


小学校と中学校の授業で「日本国憲法」を学んだおぼえがない。

三権分立とか太平洋戦争が終わって新しい憲法ができた、みたいなことは教科書で読んだような気がする。だけど、憲法ってどういうことが書かれてあるのか、その具体的な中身は、ほとんど何一つ授業で学んでない。たぶん。

おそらく、憲法を学ぶという授業は、この国の義務教育の具体的な課題にはなっていないはずだ。

でも、学校というか公教育で憲法を教えないって、変だよね。何といっても、日本国民として生きていく上での「基本」だから。道徳の授業よりも、学校の規則よりも、法律よりも、そんなものを教えるより、まずは憲法を教えるべきだよね。

だって、この日本という社会に住み、生活を営むためには、まずはその憲法を知ることが何より大切なはずだから。憲法って、そういうキャラだよ。

そんなことを、うっすらだけど、それなりの確信をもって想っておったある日、本屋の店頭でこんな文字が眼に飛び込んできた。

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。(日本国憲法第99条)」

「憲法は、政府に対する命令である。」

ほっほう!そっかあ!って感じだ。眼からウロコがぽろぽろって落ちたよ。

だから、学校で教えないんだ。国を動かしている者は、憲法にどういうことが書かれているのか、知られたくないんだ。

だって、たとえば現在の社会状況なら、原発が爆発して人類史上未曽有の巨大な被害があり、その加害者がはっきりとわかるのに、検察は起訴して裁判にかけることもしない。

これは明白というか露骨に、憲法を尊重し擁護する義務を負っていない。憲法にある公務員たる職務をまっとうしていない。

こんなこともあるので、公務員やこの国の権力を握るものは、憲法の中身を知られたくないので、公教育でその具体的な内容を教えないんだ。

ということは、国民は憲法のことを知っておかないと、こんなやつらの思いのままにされてしまう、ってことにはならないかい。

たとえば、何かと物議を醸す第9条だ。

①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ぼくは卓球の指導と日本語現代文の読解には、すこし矜持をもっておるのだけど、どこをどう読み、どう読み解いても、この条文には、日本という国は軍隊を持てない、戦争はしない、と記載してある。

だけど日本には軍隊がある。世界有数の軍事力を誇る自衛隊が存在する。そして、この現実が不思議でならない。

これ、べつに難解な文章を読解する力がなくても、ごくふつうのたとえば小学校高学年なら、日本という国は軍隊を持ってはいけない、戦争はできない、と読むはずだ。

誰がなんと言おうと「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」というのは、「軍隊を持たない」ということだろ。また自衛隊は誰が何と言おうと「軍隊」だろ。

そうなのだ。こんな9条のような「軍隊を持たない」「戦争はしない」とはっきりと、誰が読んでもそうとしか読めない文意で記されているから、軍隊を持ちたい、戦争をしたいと願う、一部の政治家や公務員は憲法の内容を国民に知らせたくないのだ。

本書はダグラス・ラミスというアメリカ出身で、日本にながく住む政治学者の著作である。外国人が書いたのだけど、実にわかりやすく日本国憲法を解説している。そもそも、憲法とは何か、というところからひも解いてくれる。

というか、もともとそんなに難解ではないこの憲法なんだけど、それを一部の政治家たちが、自分たちの都合がいいように捻じ曲げるから難しくなる、ということを著者は教えてくれているのかもしれない。

たとえば憲法でもっとも問題となる9条の「国の交戦権は、これを認めない」の「交戦権」についても、それが「どんな権利なのか」、ものすごくわかりやすく、明解にラミスさんは述べている。

もうまちがいなく、安倍政権が続くかぎり、ここをめぐって政治は動くだろう。そして、もしこの政権の想うようにことが運べば、あなたやあなたの子ども、恋人、友人、知人は「戦争」ということに巻き込まれるだろう。たとえば「積極的平和主義」という名のもとに。

そのために自分や周囲の人が殺されること、また人を殺すことになるかもしれない。安倍政権があるかぎり、そんな事態が起こることは、ごく近い将来やってくる。

もし、そういう事態が起こらないとすれば、それは福島第一原発の4号機あたりか、再稼働した原発で事故が起きて、日本は戦争をできないほど滅ぶか、もしくは安倍晋三のお腹が痛くなるかである。

いや、あともう一つ、そういう事態に巻き込まれない方法があった。それは現憲法の中身を知り、第9条の「交戦権」を正しくというか、ごくふつうに理解することである。

「交戦権」の「交戦」とは、日本が他国を侵略するための戦争はもちろん、日本が他国から侵略されたとき自衛する戦争も指す。

本書はこの点について、「侵略戦争の場合はもちろん、自衛戦争の場合であっても、国の交戦権は認めない」という意味であると述べている。

この憲法の一節は、ぼくたちが戦争で外国人に殺されない、また外国人を殺さないための金言である。

まあ、有史以来、侵略戦争するといって戦争を始めた国なんてない。たとえ客観的に侵略戦争であっても、どの国も自国防衛、自衛のための戦争って言い張ってきた。

だけど政府が、すくなくとも民主主義的政府が存在する理由は、戦争をするためではないはずだ。戦争をしないために、ぼくたちはこういう機関に高い税金を払って維持しているつもりだ。

内政、外交の失敗が戦争なんだよ。

ときどき、日本国憲法は外国から押しつけられたからよくないという声が聞こえるが、たとえ外国からでも、いやバルタン星人やはるか彼方の宇宙人から押しつけられたとしても、とにかくいいものはいいんだ。

たとえ日本人が考えた「自民党憲法草案」よりも、現憲法の方が月鼈、雲泥万里の差をもって真っ当なんだよ。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言の全面受諾、無条件降伏をもって戦争を終結させたが、あの戦争の一方的犠牲者、また加害者ながら犠牲者ともなった数千万人へのせめてもの報いが、日本人としてこの憲法を護ることではないだろうか。

日本人は現憲法を護る義務があり、その権利を有する。

しかし、それにしても、この本のつくりはすばらしい。中身はもちろん、表題、装丁からすごい(しかし、タイトルよりネーム(惹句)のほうが数倍大きいカバーなんて見たことあるかい?)。

同じ出版人、同業者として、ここに敬意を表したい。ちなみに装丁は業界で大御所とされる菊地信義だけど、この編集者もすごいよな。

2013年9月27日金曜日

ぼくの座右の書はこれです。すべての人間の苦難、災禍の根源をたどると「境界」にゆきつくのですから

 


無境界

ケン・ウィルバー
吉福伸逸訳、平河出版社、1986
 

 


 
 


 
ぼくは、この人生で、困ったときは、とりあえず本屋や図書館に出向き、アマゾンを開く。やはり、本に救いや助けを求めてのことだ。

本をあまり読まない人もいるけど、それはそれで本人の勝手というものだが、本を読まないで、この渡世をサバイバルできるということに感心してしまう。

本は人生に溺れた時の浮輪のようなもので、ぼくの場合はこれまで、もう何千という浮輪が必要だった。

その浮輪のなかでもっとも頼りになったのが、何といっても今回、第一番目に挙げた『無境界』だ。

ぼくはカバーをとって読む癖があるのだが、そのむきだしの白い表紙は手あかにまみれ、かなり汚れている。ぼくのは9刷で1993年発行となっているから、おおよそ20年ほど、この本を持ち続け、そのあいだに10回は読んでいるはずだ。これほど、なんども読み返したのは本書だけである。

この本を本棚から引っ張り出すのは、人生に困ったとき。でも、だいたい年中困っているから、とくに困っているときかな。ということは、いま寝床にあるってことは、そういう時期っていうわけだろう。

しかし、何回読んでも新しい発見があって、目覚めさせてくれる。噛めば噛むほど味があるというか、再読するたびに目の前が開けるというか、自由と勇気を与えてくれるのだ。

まあ、それは自己成長のあかしであり、あるいは驚くほどぼくの成長が遅々としているということでもある。

なんといっても副題が「自己成長のセラピー論」だもの。

座右の書といえば、まちがいなくこの本を選択するだろう。ケン・ウィルバーの本はほぼ全部読んでいるが、これがいちばん好きだ。さてさて、ぼくの渡世、これから何回、この本を引っ張り出すことやら……


すべての人間の苦難、災禍の根源をたどると「境界」にゆきつく。人間は自己の皮膚を境界として「自」と「他」に分け、ありとあらゆるものに名をつけるが、これは境界をつくることを意味する。

境界が戦線となるとケン・ウィルバーが述べているがごとく、ほんらい誰のものでもない地域に境界を設け、そこに国というものをつくり、その国境をめぐって戦争が起こる。

個人の苦しみ、社会の歪みはすべて境界に収斂される。

さも、この世は境界だらけに見えるのだけど、聖者や賢者、覚者が、みな一様に語るところ、この世は「一なるもの」と口をそろえる。

そう、無境界である、と。


森羅万象が無境界であることを知ること。社会が、自分と他人が、そして自分そのものも。そのことを感得することこそが、ただ唯一の「救い」なのである。